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東みよし町の文化財 足代城跡

足代城跡の写真

足代城跡は、足代八幡神社の北の山麓字シロにあり、「城跡記」には「阿波百二十八城中本城二十八城あり、足代城もその一つである」と記されている。
東の方は三好市三野町・東みよし町三加茂地区が一望でき傾斜が急で、西には湯谷があり天然の掘り割りを形作り、水の便にも恵まれている。北は阿讃山脈の急峻で、細道により宮谷を経て香川県に通じており、要害の地であると共に地理的に重要な位置を占め、三好氏の三好郡(旧三好郡)における拠点になっていたのであろう。 城跡の本丸跡と言われている小高い所の中央付近は、台・宮谷へ通じる道として大正時代に堀り取り、道の東側は昭和59年(1984年)、三三大橋取り合い道路の盛り土として切り取り、現在は西側より低くなり民家が新築されている。

この時、発掘調査は行われなかったが中世の壷が出土した。足代城跡について古書籍に見られる記述をあげると次のようである。

  • 城跡記 前述のため省略
  • 三好記(寛文2年(1662年))
    「足代の城には三好備前守」の記述がある。文献上最初の資料である。
  • 阿波史(文化12年(1815年))
    「足代塁足代山中ニ在リ裏山ト称ス。永禄年中三好備前守此ニ拠ル、
    天正年中亡」と記されている。
  • 阿州城跡記
    「天正十年落城、主将三好備前守」(天正十年は誤りか?)
  • 阿州諸将記
    「足代城ハ三好備後守ル、右同姓松皮菱、百五十貫」(備後守は備前守の誤りか?)以上の記録から見れば、天正時代(1573年~1591年)城主は三好備前守であったことは明らかである。しかし、この三好備前守が三好系図の誰かについては推理の域をでないのであるが、三好正康の子(法名一任)でないかと言われている。
  • 古城伝承記
    「備前守泊り鷹野に立越たるを、上野守聞きて手勢二百五十騎を夕闇にまぎれて城際え忍び寄せ、城戸にてときをどっとつくりければ城中大いに騒ぎ、我先にとくもの子を散らす如く逃げにける云々。寄手終に城を乗取り、勝どきおぞ挙げにける。備前之を聞きて、戸渡る舟のかじを絶たれる心地して、あきれ果ていたりしが、かくてはならぬ事なれば、重ねて一族を催し会稽(かいこ)の恥をそそがんと、都のほうえ落ち行きけるとぞ聞きし由、土佐え注進しければ、元親深くその忠義を感じ、即ち足代の城を与えたり。」と記されている。
  • 阿波国三好郡村誌
    「足代塁跡、本村良(うしとら)(注1)ノ方字三名ニアリ、今尚地名ヲ城ト呼フ。西ニ湯谷ノ細流アリ、東南西ノ三方ハ断崖ニテ、後ノ方ニ空壕跡アリ、又少シ高処、平地凡三畝許ニ天主跡ト云フ塁址壱町弐反歩許、阿波志ニ曰く、足代塁足代山中ニ在リ裏山ト称ス。永禄年中三好備前守此ニ拠ル、天正年中亡ト、阿陽古城記ニ曰ク、足代城天正年中落城、主将三好備前守ト」
    古城伝承記に出てくる上野守(こうずけのかみ)は大西覚用の弟七郎兵衛(頼包)であり、長宗我部元親が三好郡(旧三好郡)侵攻の初期、覚用と和議を結び、弟を(七郎兵衛)を人質として元親に差し出した。その後、覚用は河内国高尾城主の三好山城入道笑岩よりの書状により、元親との和議の約束を破ったのであるが、人質の七郎兵衛は殺されなかった。七郎兵衛は元親の恩義を感じ、元親の三好郡(旧三好郡)侵攻に協力、成功後は上野守として馬路城に居住し、近隣の切り取りを許され、足代城も攻略したのである。
    三好長慶と大西頼武は義理の兄弟であり、三好と大西は親戚関係である。
    上野守の夜襲は、近親への配慮と、長宗我部への義理立てを含む政治的なものではなかったろうか。また、備前守は本家三好長治の悪政に対し、足代城の死守する意欲もなく、さりとて長宗我部に与(くみ)するのも心よしとしない微妙な立場にあり、讃州小松庄(琴平)に落ち延びたと云われている。 その後、長宗我部の追跡調査を避けるため、天正5年(1577年)5月大川山北の〈くぬぎの谷〉にかくれ、のち正徳5年(1715年)松平藩の検地を受けていたといわれている。

(三好町の史跡と遺跡より)

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