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東みよし町の文化財 東原遺跡

東原遺跡の写真その1

説明1

(昭和59年12月28日徳島県史跡指定)

昭和56年(1981)10月から翌年の5月まで、吉野川北岸農業水利事業の幹線水路埋設工事が行われ、この時発掘された遺跡である。遺跡は「積石墓」と「前方後円墳」の2種類からなっている。

  • 積石墓 東側の積石墓は36基発見されたもののうちの1つである。積石墓の上面や積石の間に多数の土器が壊された状態で供えられていた。これらの土器類は、外面は平たい木片で叩き、後で刷毛で仕上げており、内面はヘラで削って造ってある。このような特長から弥生時代後期末(250年頃)のものであろうといわれている。積石墓は土で盛った前方後円墳に先がけて造られ、古墳発生の鍵を握るものであると言われている。
  • 前方後円墳 全長16.5m、後円部は11mで比較的小規模のものである。後円の主体部は盛土があり未発掘で不明であるが、組み合わせの石棺でなかろうかと推定されている。出土遺物から古墳時代の初め頃(320年頃)造られたものでないかと推定されている。現時点では積石塚古墳として最古のものと考えられている。

東原遺跡の写真その2

説明2

東原遺跡は四国縦貫自動車道の建設に伴い、平成8(1996)4月3日~同9年3月21日まで発掘調査が行われた。
遺跡は足代にあり、黒川原谷川によって作られた扇状地(注1)の端の部分に位置し、徳島県教育委員会指定の足代東原遺跡の南方500m位にあり、東地区と西地区に分かれている。
東地区では中世(鎌倉時代~戦国時代)の集落跡が検出され、多数の柱穴・土坑・溝状遺構が検出された。また東西南北を意識して建てられたとみられる堀立柱建物跡も見つかった。多くの柱穴は、重なって掘られていることから、頻繁に建て替えが行われたと思われる。
柱穴の中には、完全に近い須恵器の椀や土師器の杯が出土した。これは家を建てる時の祭りに関わるものと考えられる。また、柱穴から土師器の小皿の上に銅銭を置いた状態で出土したものもあった。
西地区は一段低い谷間の部分にあたり、弥生時代(1300~1700年位前)から中世にかけての遺物が検出された。西側は西原遺跡と隣りあって接していて、弥生時代と中世の遺物が同一の地層の中に混じっていた。これは河川の氾濫などにより形成されたと思われる。
西側に接する、西原遺跡や北側の平坦部に形つくられた遺跡から、遺物が流れ込んでいると考えられることから、北側への遺跡の広がりが予想される。 この地域は吉野川に面した南向きの高台という条件に恵まれた場所のため、集落がつくられ、東西南北に区画された屋敷をもっており吉野川上流域の中世の集落の成立を考える上で重要な資料となる。

  • 注1 扇状地
    川が山から平地へ流れ出る時、流れが緩やかになり、土が扇状に堆積した地形。

(三好町の史跡と遺跡より)

地図

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