トップ観光・文化・スポーツ文化財東みよし町の文化財 土井遺跡

東みよし町の文化財 土井遺跡

土井遺跡の写真

遺跡は県道昼間辻線を中心に、東西役150mにわたり四国縦貫自動車道の建設にともない、平成8年~9年にかけ発掘調査が行われた。調査地は、吉野川北岸の標高96m前後の、平坦な段丘上にあり、東には馬木谷川、西には金江谷川が吉野川に向かって南流し、ほぼ中央には県道昼間辻線が南北に通じており、若干独立した感のある地形となっている。吉野川に面する段丘の端には小高い丘の上に滝宮神社がある。
『日本城郭体系』やその他の古書籍には中世の「東昼間城」が存在したと記されている。
調査の結果調査区のやや中央部を自然流路が流れ、その東西に微高地が広がる旧地形が復元できた。
西側の微高地上には弥生時代中期の初頭、中世、近世の遺構・遺物が発掘された。旧自然流路にあたる個所では水田面が確認された。
東側微高地上の調査地内では遺構の確認は出来なかったが遺物の出土から遺跡が存在したと推測される。
土井遺跡は弥生時代~近世と時代幅があるが、鎌倉~室町時代を主体とする遺跡であるが、東昼間城の存在を裏付ける遺構は確認されなかった。しかし発掘地の北側に方形区画の屋敷地の存在が窺える個所が認められる。
調査の結果、掘立柱建物・区画溝・土坑などの住居に関する遺構、また水田遺構や煙管状土器焼成窯、灰原(物原)などの生産に関する遺構が確認された。
確認された遺構の中で特に煙管状土器焼成窯が注目される。この窯は横から見た形が昔のキセルに似ており、一般に「キセル窯」と呼ばれている。窯は、平坦な地面を掘り込んで半地下式に構築されているが、後世に破壊され全容は不明であるが、窯の本体部と灰原の一部は良好な状態で確認された。焚き口と焼成室のあいだは、トンネル状に掘り抜き連結されており、焚き口部をやや低くし傾斜をつけている。窯の内部には粘土を貼りつけ、上方に向け、やや広がる円筒状になっていたと考えられる。窯の内部は熱のため赤色に変色し、特に上部は高温による酸化還元(注1)のため赤色から青灰色に変色していた。また、焚き口と焼成室を区画するロストルとして結晶片岩を利用したと考えられる。
窯や灰原からは須恵器碗を中心に、土師質坏・皿などの供膳具(注2)が出土した。これらの土器からこの窯は12世紀後半から13世紀初頭にかけて操業していたことが想定される。県内における煙管状土器焼成窯の調査例は、神宮寺遺跡(上板町)薬師遺跡(美馬町)に引き続き3例目である。 土井遺跡の煙管上土器焼成窯は主に土師質土器、須恵質土器の供膳具が焼かれていたと思われる。
土器焼成窯の北約1m程離れた場所に灰原と考えられる土器溜り遺構があり、また、土器焼成窯の東および南側の離れた場所には、床面が焼き締まった方形の土坑が3基確認されている。これらの事から、単独で窯が存在したのではなく、附近に複数存在した可能性が考えられる。
主な出土遺物は、土師器、須恵器、紡錘車(注3)、土師質杯、椀、小皿、鍋、土錘、須恵器椀、陶磁器、鉄製品等であった。

  • 注1 酸化還元
    粘土の中に含まれている酸素と化合している鉄分より、酸素を除き鉄にもどすこと。
  • 注2 供膳具
    食事のときに用いる土器。
  • 注3 紡錘車
    糸を紡ぐための車。

(三好町の史跡と遺跡より)

この情報は役に立ちましたか?

お寄せいただいた評価は運営の参考といたします。

このページの内容は役に立ちましたか?※必須入力
このページの内容は分かりやすかったですか?※必須入力
このページの情報は見つけやすかったですか?※必須入力

このページの先頭へ

くらしのガイド

よくある質問

よくある質問で検索したいキーワードをご入力ください。