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東みよし町の文化財 土器丸城跡

土器丸城跡の写真

昼間中屋の美濃田石油店の東側を流れる金江谷の上流の前山にあり、標高218mで城跡の東と西は金江谷の支流による渓谷になり、南には金江谷の支流の分岐点がある。北側は凹地になり城跡全体は土饅頭型の山で、頂上には稲積神社が祀られている。
土器丸城の古記録類にはつぎのような記録がある。

  • 古城記写(元亀3年1572年)「萩田修理亮、当家は田岡のために討死にす」
  • 阿波諸将記
    「年歴不詳、右同村主将萩田修理亮久富、田岡のために討死」
  • 阿波志(文化12年(1815年))
    「昼間西村の渓上に在り、萩田久富此に拠る」(西村は東村の誤りか?)
  • 阿波国三好郡村誌(明治14年(1881年))
    「土器塁跡、本村東ノ方字中屋ニアリ、平面方拾間、阿波志ニ云、昼間西村渓上ニ在り、萩田久富拠ト、阿陽古城記ニ曰く、土器丸城西昼間村、主将萩田修理允久富、田岡ニテ討死トアリ」

上に掲げた古記録によれば時代は不明であるが、土器丸城の城主は萩田修理允久富といい、「古城記写」「阿波諸将記」では田岡のために討死したことになっているが、その後は不明である。
昼間郵便局のすぐ南に矢塚と云われている木製の小さな祠があり、土器丸城落城の際の戦死者を葬った塚と云われている。

(三好町の史跡と遺跡より)

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