東みよし町の西部にある小川谷運動公演の北側に、小高い丘が2個あり、ここが田ノ岡城跡といわれている所で、東と南の方は各種工事により削られ変形している。古記録類には田ノ岡城について次のように書かれている。
古城記写(元亀3年 1572年)
「田岡刑部興廃不詳」
阿波諸将記
「時代不詳、西昼間邑、主将田岡刑部佐々木定綱末孫也」
阿波志(文化12年 1815年)
「在昼間西村道南、田岡刑部」
阿波国三好郡村誌(明治14年 1881年)
「本村西ノ方字大木戸ノ小丘上ニアリ、東西三十間、南北五十壱間阿波志二云、田岡塁昼間西村ノ道南二在り、田岡刑部亟拠ル処、姓源佐々木高綱近江人之来リ、小笠原氏二隷ス、天正中農ヲ為シ子孫猶在ス」
これらの記録によれば田ノ岡城の主将は田岡刑部といい、近江から来た紗先高綱の子孫で、小笠原氏に仕え、天正年中(1573年~1585年)に農民となり、明治初期には子孫が西昼間村に存在していたのであるが、この城における戦の記録は記されていない。
田ノ岡城の広さは東西30間、南北51間と「阿波国三好郡村誌」に書かれている。これによると約5反(50a)である。したがって東と南の方へ広がったのであろう。田ノ岡城は城と言っても小さい城である。常には近くの平地に居をかまえ、戦の時に利用したのではなかろうか。
また、このあたりの小字には「大木戸・敷地・平の内」などがある。大木戸には大きな木戸が設けられていたのではなかろうか。敷地には大きな屋敷が在ったのであろう・また、平の内は周りを塀で囲った所であったのではなかろうか。したがってこのあたりは北側の城山にある東山城と共に、軍事的に重要な位置であり、そのための施設が設けられていたのであろう。