高さ62cm、幅25cmの蓮華片形の目立たない小さい墓である。碑文は正面に「種子(大日如来)大西頼武」右側に「寛政七年(1795年)卯六月三日」左側に「施主七代子孫大西清衛門」と刻まれている。大西頼武(願成寺に薬師如来を寄進した元武の兄「三好町史」)は三好長慶の妹を妻とし、長慶と共に畿内で戦っていたが、のち老いの身を白地城で静養していた。
しかし、長宗我部元親に山城の田尾城を攻略され、白地城も戦意を失い頼武は自決し落城した。城主覚用は父頼武の遺体と共に東山城に逃れたが、途中大具(おおぐ)の渡しで父頼武の遺体を埋葬したと言われている。
ここが今に残る三好大橋南詰めの「頼武さん」と言われる小さな祠である。後になり頼武が信仰していた願成寺の近くへ子孫が建立したのであろう。
(三好町の文化財より抜粋)