(平成4年3月30日町史跡指定)
小川谷運動公園の北側にそびえる標高400mの山を城山と呼んでいる。この山の頂上にある熊野三所神社の社地に城址があり、千早城に範を取った典型的な中世の城と言われている。東・南・西側は急峻で、北側は柳沢に続いている。空堀と割石があり、逆茂木も設けた事であろう。
男山に新田神社があるが、南北朝時代川之江の戦いに敗れた新田義弘の一族に関係ある神社だと言われている。このことから東山城は新田義興が築き、挙兵したのではなかろうか。
また、別の説として川之江の戦いに敗れた新田義弘が築城したのではないかとも言われているが、史実が明らかでなく憶測に過ぎない。
新田義興・義弘いずれがこの城で兵を挙げたのか不明であるが、小笠原氏(後の三好氏)は守護職の名を保つ事を条件に細川氏に被官(貞治元年・1362頃)し、そのため平地は北朝方になり細川氏に攻撃され、壮絶な戦いの末落城したのであろうと想像される。(白米伝説がある)
また、戦国時代には長宗我部元親の攻撃により、白地城を逃れた大西覚用は東山城に逃れてきたと言われているが、戦いの記録や口碑は残っていない。