東側微高地頂上付近で出土した。梁行2間・桁行2間で棟が東西方向に向かっている総柱掘建柱建物跡が確認され、この建物の南側の柱穴から白磁四耳壷(はくじしじこ)が、北側の柱穴から瓦質四耳壷(がしつしじこ)が完全な形で出土した。四耳壷は共に柱の中央部に、口の部分を北西方向に向けた状態で出土した。
白磁四耳壷は11世紀後半(平安時代後期)から12世紀(鎌倉時代)にかけて中国南部地方から輸入されたものと考えられる。
瓦質四耳壷は形態的特徴から、輸入陶器や国産陶器を模倣して製作されたと考えられ、口の縁の部分や胴体の形態は、白磁四耳壷と同時期に輸入された褐釉陶器(かつゆとうき)によく似ているが、他に類例が見当たらず、年代等は不明である。
また、他の柱穴からも土師器の杯や皿が出土したが、いずれの柱穴からも柱痕は確認されなかった。また、両四耳壷が完全な形で出土したことから、柱を抜き取った後に四耳壷等を柱穴内に埋納したと考えられる。
中世における輸入陶磁器の埋納例は、経塚や墓等に認められるが、建物の柱跡への埋納した例は稀である。中世における地鎮行為は建物前に土器。銭貨、穀物を供え献上するため埋納し、また、廃絶時にも土器や穀物を埋納している。今回確認された祭祀行為は建物廃絶時に行われたと考えられる。
徳島県内においては、こうした地鎮祭祀の時の土器は殆ど土師器である。今回確認された遺構は、当時高級品であったと考えられる白磁四耳壷を使用していることや、四耳壷の埋納にあたって規則性が認められることから、単なる地鎮祭祀ではない可能性も考えられ、周辺の遺構を検討して考える必要がある。埋納時期は13世紀(鎌倉時代)頃であろう。