トップ観光・文化・スポーツ文化財東みよし町の文化財 丹田古墳

東みよし町の文化財 丹田古墳

文化財の写真1です

説明1

この古墳は海抜460mの尾根に構築された古代豪族の古墳である。
この塚は地元では「経塚」と呼ばれ、墳丘の一部に大師堂が祀られている。ところが昭和37年町文化財保護委員田中の注意で積石の古墳であることが判り、やがて県の史跡指定をうけた。外形はシャモジ形をした積石塚の前方後方墳で、前方後方墳のうちでも古式に属する外形をしている。下方近く吉野川とその沿岸平野の集落を俯瞰している。
昭和44年(1969)3月学術資料を整えるため、また荒廃部を復元することを目的に京都同志社大学考古学研究室に調査を依頼して調査を行った。
その結果、本古墳は丘尾切断法による積石前方後方墳で(全長38m、後方部東西長19m、南北長18m、高さ3m、前方部巾8m、長さ18m、高さ1m)、日本の前期古墳でもその初期に属し、実年代は4世紀代と推定され、日本の古墳は大半が土塚で積石像はごく少ないが、さらに前方後方であることと、合掌式竪穴石堂を有つこと、石室の副葬品に三角緑鏡一面、鉄剣一片、鉄斧一個出土で、きわめて貴重な遺跡である。この地方の水稲文化開発と発展、政治勢力の成長とその系譜や変遷など示唆される点が多い。

文化財の写真2です

説明2

吉野川に注ぐ鴨谷川沿いの道は土佐の大栃へ通じる旧街道である。徳島本線の阿波加茂駅を下車し、道を南東へとること約1.5kmで峡谷の入口に発達した鍛冶屋敷の家並にいたる。その家並のつきるころ、右手に「丹田古墳」の木標があり、そこから急な凹地ぞいの狭い山道を登るとやがて古墳にいたるであろう。しかし、この道は急峻にすぎるので、前記の木標の立っているところからさらに約300m進むと右手に加茂山へ通じる山道の入口がある。登ること約500m、分岐点をふたたび右の道をとると、やがて凹地をへだてて北方に丹田古墳の墳丘をくっきりと望むことができる。この道は丹田家の邸の前でつきるので車はここですて歩くこと数分で丹田古墳の前方部につくことができる。丹田古墳は眼下に吉野川とその流域平野を見わたせる景勝の地に築かれている。四国山地の一高峰日の丸山(1240m)は北へ向かって高さを減じつつも尾根をのばしつづけ、方向をやや東にとったところに加茂山(731m)が聳える。加茂山は北方へ向かって急に高さを失い、やがて吉野川の流域平野につきるが丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約320mの高所にある。これを大観すれば、加茂山の中腹にあたる尾根の突出部に位置し、前方部は尾根の高い方に向け、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。丹田古墳は行政上では三加茂町西庄加茂山222番地に属している。
丹田古墳の所在地の南西の表土は丹田の地名が示すように赤土で構成されている。われわれも調査中畠に開墾された斜面で石器の採集を試みたが成功しなかった。しかし調査後、2個のナイフ形の打製石器が採集されている。また丹田古墳南東の横根の畠においても磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布している。さらに鴨谷川右岸の小伝にある新田神社の1号岩陰からは1969年9月に多数の縄文土器片が出土した。このように丹田古墳の近辺の山地形には石器時代関係の遺跡の存在が急速に知られるようになったが、これらにたいする考察はいずれ開始されるであろう岩陰遺跡の研究において行いたい。
丹田古墳の出現を考えるうえで重要なのは弥生遺跡であろう。稲の栽培を生活の根幹とする弥生時代には、吉野川の流域平野に生産と生活の舞台が移行したのは当然であろう。稲の生産には水田に利用できる平地もさることながら、それへの灌漑源が必要な条件である。この場合、平野面よりもはるかに水面が低い吉野川の水源は初期の農耕では利用することができず、本流へ流れ込む支流が灌漑としての役割をになうものである。丹田尾墳と岩神古墳の間を北流する鴨谷川は、この意味で重要な水源であり、今日も鍛冶屋敷の集落内に井堰があり、そこから三加茂の流域平野へ配水をしている。この関係は、弥生式時代にも基本的には同じであったと推定され、弥生式時代にも基本的には同じであったと推定され、弥生式土器の出土地点(おそらくそれは集落址を示すものであろうが)はいずれも鴨谷川の流域平野にある。腹部と頸部に突線帯をめぐらした前期の壺を出土した東原遺跡やわれわれの調査中に後期の土器片が発掘された井関遺跡などはその代表である。おそらくこのような農業生産を背景として丹田古墳をのこしたこの地域の首長は誕生したのであろう。
丹田古墳とほぼ同じ時期、所謂古墳前期に築かれたと推定される岩神古墳は、次節で述べるように鴨谷川の右岸の高所にあり、丹田古墳と同じ立地をとっている。これに対して、後期古墳は流域平野と山地形との接触部に多く遺存している。今日はすでに失われたが、石棚のある横穴式石室を有した古墳や貞広古墳群はその代表である。とくに貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や平夷されている径約16mの円墳天神塚など数基で構成されている。
丹田古墳をとりまく考古学遺跡は以上数例を紹介したように豊富で、しかも各時代を代表するものが残っている。古く出土して局地名は判らなくなっているが、三加茂町内、おそらく古墳出土品と推定される一面の銅鏡が田中猪之助氏の家に伝えられている。それは四キ文鏡で、中国の全漢晩期から後漢早期の比較的短い時期に行われた鏡式で、それの日本への流入経路は他の鏡式群と同じように不明であるが、わが国の古墳から十余例が知られている。三加茂町の古墳文化の一端を知る資料である。このように三加茂町の古墳文化は前段階の弥生式文化をも含め、きわめて注意すべきものがあるが、その総合的な研究は分布調査などの基礎研究が進んだ時点であらためて考えたい。

(三加茂町史より)

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