説明1
所有者は中庄の松浦美喜光氏。西須賀1136番2にある秀森塚は、地元では秀盛さんと呼ばれ信仰されてきた。家具(ぜんやわん)をそろえて貸してくれるという伝説から、家具の岩屋ともいわれる。平野部に立地する円墳で、直径約16m、高さ約2mの墳丘があり、周囲には堀をめぐらしていた。高所に位置する前期古墳と違い平野部に築かれたこの古墳は、加茂貞広の天神塚やすずめ塚(いずれも円墳)と同じように横穴式石室をもつ古墳時代後期の築造であろう。盗堀の痕跡はないが、この北側には須恵器の破片が多数散布し、馬形埴輪が採集されている個所があり隣接して別の古墳がほぼ同時期に築かれていたらしい。なお、町内には現在までに経塚を含めて46墓の古墳が確認されている。昭和57年7月20日町史跡に指定された。
(みかもの文化財より)
説明2
三庄小学校の南東隅に、1m足らずの農道を挟んで小高く盛り上った弓形の3a余りの竹籔がある。その南よりに石造の祠があり「秀盛さん」と呼んでいる。
昔は、この竹藪は大木の生い茂った森であった。たまたま吉野川に大洪水があって、南方の山手にひき上がった長善寺の石段の下から3段めまで浸水した。この時はるか西方の加茂からこの森を眺めたら、朝日が浮島となった森の上に、あかあかとさし昇ったので、村人たちは「日出森」と呼んでいたが、いつの頃からか秀盛というようになった。その森も竹藪になってしまった。 藪の中に、巾1m・長さ約4m・厚さ3.4cmほどの平石で造られた。広さ4畳敷ぐらいの石室がある。この祠に油あげを供えてお参りすると不思議と咳が止まるので、今も参詣人が後をたたない。
昔、客ごとのあるとき村人が、膳・椀を借りに行き「明日何十人前お願いします。」とこの祠に頼んでおくと、翌朝間違いなく頼んだだけの膳・椀が用意されてあった。用がすむと「ありがとうございました。」と返せばよいので、ことある度に利用していた。ところがある時、不心得者がいて、借り出したまでは良かったが、慾心をおこし返さなかった。それ以来いくらお願いしても貸してくれなくなったということだ。
この石室に次のような説明がつけられている。
昔、第55代文徳天皇第1皇子惟喬親王の遺民たちが、天皇器地祖神神社の神人氏子として、東は駒の蹄の通うほど、西はロ・カイの立つほど、日本国中諸役ご免の綸旨をかさに、天皇器地祖神神社の菊花ご紋章入りの絵符ちょうちんを振りかざし、諸国の森を、官私の別なく、思うままに樹木を切り倒して、膳・椀を造ったという。それらの人を木地屋と呼び、古墳内を利用し、穩里(かくしざと)として使用していた。だからこそ膳・椀も貸すことができたんだ。つまりこの石室は木地屋の工場だったというわけである。
(三加茂町史より)