トップ観光・文化・スポーツ文化財東みよし町の文化財 八幡神社(磐境他)

東みよし町の文化財 八幡神社(磐境他)

八幡神社(磐境他)

説明1

この列石は霊域を標榜したもので一種の磐境であるといわれていた。ところが、西宮市の田岡香逸氏の再度の調査によって「この列石は玉垣の代用として作られたもので、近世に入ってからの建立・・・神離石等ではなく、結界石の範囲に属せしめるべきである・・・」といわれている。いずれにしても、このような巨大な平石を利用して築造した列石は珍しく、長く保存が望まれている。

説明2

中庄の八幡神社をとり囲む立石を磐境、神籠石または結界石・玉垣石ともいわれている。
この八幡神社のような立石は、全国でも例がないといわれている。東西約114m・南北65m、いずれも結晶片岩で幅1.5~2m、厚さ0.3m、地上1.2~1.5m、地下約1.5m埋っている。総数387個、なお付近には相当埋っているようだ。
明治に入って、畑作の邪魔になるこの石をのけようとした人々があったが、いずれも腹が痛んだり、怪我をしたりするので、未だに誰も石にさわろうとはしない。
ある時、盗人が神体を桶に入れて盗もうとしたら神殿の階段で立往生したそうだ。毎年のこの神社の祭にミコシをかつぐと、その1年風邪をひかないともいわれている。

(三加茂町史より)

説明3

国鉄徳島本線三加茂駅に接する八幡神社の境域をめぐり、二重に板石を建てめぐらしていることは古くから知られ、かつて、これを古代の神籬石というような古いものでなく、境域を限り、神域を郭する二重の列石に過ぎないことを確めた。
近年この種の遺構を注目するようになり、施設は精粗さまざまであるが、これを結果石と名づけ、その範疇に属せしめることにし、若干資料を紹介した一文をまとめ”歴史考古”(日本歴史考古学会発行)に投稿しているので、近刊の同誌に掲載される予定である。
こんな機会であったから、最後に神社を訪れ田中猪之助氏の案内で、列石を改めて見たがやはり、いわゆる神籬でなく、わたくしのいう結界石の範疇に属せしめるべきものであることを再確認したので、いちおう所見をのべて参考に供しよう。
ここで、まず神籬石の定義を明らかにしておかなければならない。神籬石が最初に学問の対象として取りあげられたのは、肥後久留米市の高良山である。山頂から中腹をめぐって麓に達する切り石は背を揃えて透き間なく建ち並び、麓の入口に門跡の遺構がある。つまり、山頂を神座とする聖地説にもとづき、神籬石と名づけたのである。その後、同式の遺構が北九州の各地へかけて(周防でも)発見せられ朝鮮における山城との比較検討から、だいたいにおいて、古墳時代末期の山城説が唱えられるようになったのである。つまり祭祀遺構として名づけた神籬石であったが実は軍事遺構だったのである。それにもかかわらず、なお神籬石と呼んでいるところに問題があり、定義を明らかにする必要が、研究の前提条件になるとわたくしがたびたびの機会に強調しているゆえんである。
さて、神籬石をこのように定義すると、八幡神社の列石が、それに該当するといえるだろうか。これを神籬石と名づけたのは聖地をめぐる表標としての本義からであろう。果して然らば、この列石が神籬石とよばれるにふさわしい古代の遺構といえるということが次の課題であろう。
聖地を中心に立石をめぐらす例は、古代祭祀遺跡に往々見られるが、多くは環状で、八幡神社のように規短整然としたものはない。おそらく境域を限り神殿を郭するためのもので、いわゆる玉垣にあたり適当な石材がえがたいところから地元産の緑泥片岩の板石を用いたまでで、とびとびに建て並べたものであろう。つまり玉垣の代用と解してもよく、玉垣の造立に中世にさかのぼる例がないのであるから、損傷は甚しいがいちおう近世に入ってからの造立と見るのが穏当であろう。 気づいている人は少ないと思うが、伊勢神宮の内宮にせよ、外宮にせよ、高い板塀を四重にめぐらし、正殿を囲うている。そして、外側から板塀、外玉垣、内玉垣、瑞籬と呼んでいる。一般の人々は板垣を入り外玉垣から拝するのである。玉や瑞は美称にすぎず呼名はちがっていても、すべて垣であり、神厳のために四重にしたまでで、本義は一重に変りがない。とにかく、これより内は神聖な地であり、みだりに人の入ることを許さぬ標識であり、古語にいうユイ、シメの進化であること、疑をいれる余地がない。
これを要するに、塀や垣は占地の標識であり、木造では腐朽しやすいので石造にかえて恒久化を図るようになるのは、自然の理であろう。このような移り変りにも一定の時点がありわが国では鎌倉中期が顕著な交替期であったと、わたくしは確信している。それには適当な木材がえがたくなってきたのと同時に、石造化の負担にたえられるまでに、経済的自立化が進んだことを反映していることを見のがしてはならないと思う。そして、このような石造りの遺構が、このころからぼつぼつ見えはじめるのであるが、なお遺例の知見にあるものは少なく、すべて、神社や仏寺など、信仰の対象となる聖地に限っている。神仏混淆の世であるから、仏教用語ではあるがこれらを総称して、私は結界石と呼ぶのである。あえて八幡神社の列石を、その範疇に入れんとするゆえんである。それにしても、いわゆる神籬石式に建て並べたこの列石は立地条件にもとづく必然性とはいえ、珍しい遺構として保存管理に値すること改めていうまでもない。

(三加茂町史より)

【関連文化財】

宵宮神事

宵宮神事

この神社では秋祭の行事の一つに古くから伝えられている珍しい「宵宮神事」がある。俗に「よいみや」といっている。この神事は「降神の行事」と「神代神楽」の二つにわかれている。
降神の行事は、毎年十月十四日夜行われるもので、庭燈を焚き、その明かりで拝殿の前に吊り下げた「おんじゃく」を前後に揺り動かして神を神殿にむかえる。この行事が終わると神代神楽がはじまる。
神代神楽は「剣の舞」と「乙子(おとご)の五郎の舞」の二つがある。剣の舞は氏子から選ばれた「剣の舞人」が、太刀と扇をもって「五方堅め」を行い、最後に剣を頭上でまわして、悪病、悪魔を退散させて舞は終わる。
乙子(おとご)の五郎の舞は、五人の舞人によって、昔大王の御子五人の皇子が財産分配にまつわる伝説を踊化したもので、財産を平等にわけあって、仲良く暮らすという」素朴ながら勇壮な舞である。
県下で古い形のままで、こうした秋祭りの行事が残っているのは珍しく、昭和30年(1955)5月6日徳島県指定文化財(民俗資料)となる。昭和39年(1964)1月地元では「八幡神社宵宮神事保存会」が結成され、行事保存につとめている。
八幡神社では、県指定無形民俗文化財の宵宮神事が毎年行われている。

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