トップ観光・文化・スポーツ文化財東みよし町の文化財 林下寺(お花大権現)

東みよし町の文化財 林下寺(お花大権現)

林下寺(お花大権現)

大小さまざまな男性のシンボルが多数奉納されている。霊験を得た信者の献上物で西日本一の性碑。西日本随一の性の神様として人々の信仰が厚く、多くの参拝者が訪れる。縁結び、子授、安産等の御利益があるといわれる。

林下寺に祀る。お花大権は、作州津山(岡山県津山市)の城下にて愛をうけし、お花の方の霊を奉斉せるもので、家庭円満、夫婦和合、婦人病、性病等に霊験あらたかの故をもって、珍器の奉納は後を絶たない。西日本唯一の性の神である。
文化八辛末(1811)年、旅僧この地に来たりて、云う。「われ播州のものにして、善達と申す、またこれなるは一子善海なり。お花大権現の霊を捧持して巡礼中のものなり」と告げ、当寺の住職、大龍上人の許しをうけ、西山路の末庵観音堂に身を寄せて、お花大権現の物語を伝えた。
それによると、「お花大権現は元作州(岡山県)津山城森藩の家老、原十兵衛につかえた上女中にして、才色兼備の女人であった、お花の真摯な振舞を十兵衛は大変悦ばれ、信任あつく、寵愛するようになり、原家の姆母役となる。それもつかの間、ある日殿の留守中に子供が誤って縁側に転げ落ち、運悪く庭石に頭を打ちつけて死亡した。これを見た正妻お貴志の方は怒り狂い、家来に命じて、お花を斬殺した。帰邸した十兵衛はお花の不在に不審を抱いていたが、その後原家では正妻お貴志の方や家来が変死するという怪事件があいついだ。ある夜今はなき、お花の方が十兵衛の枕元にぼう然と立ち、「妾を神に斉って賜わりたい、さすれば世人のためには、腰から下の病をなおして、その苦痛をなおしましょう。しかし病気本復の者よりは殿に愛せられる間の短かった肉体の慰安の代りのために、珍器の形代を納めさせて貰いたい」という。十兵衛は屋敷内の庭石横の五葉松下に小祠を建て「阿花善神」として祭り、お花を慰めたという。その後は何事も起こらなかった。これが即ちその分霊である」と語り伝え、性の病苦になやめる村人を祈祷したところ、たちどころに、その霊験があらわれたという。これを聞き伝えて近郷はもちろん遠く隣国からも参詣するもの日毎に殖え、礼参りに持参する献納珍物は堂内に積み上げられ、山のようになり、溢れて置きどころがないようになったという。僧善達はここに足をとどめ、林下寺の部屋道心となり、毛田村出身の尼恵了と同居するようになった。
星うつり、年かわり播州の旅僧善達が足をとどめてから百年目の大正元年(1912)於花大権現を祀る観音堂は鉄道用地となったので同二年二月十日当寺の境内に移し、現在に至ったものである。 因に岡山県津山市の「お花の宮」は同市脇町に鎮座の徳守神社(元県社)の境内にある。婦人病、安産、子宝授け等に霊験ありといわれ、今も祭祀が行われている。
このお花の宮は津山掘の内元家老原家の庭石横にあったが、元禄十年(1679)藩主森家とともに原家も退去し、その後へ松平氏入府し、元原家の屋敷に道場が建設されたので、お花の宮は同屋敷の隅に移されていた。慶応元年(1865)八月同市西寺町の大円寺に移転、さらに明治元年(1868)神仏分離により祠を徳守神社に移し現在に至っている。
津山市の伝によれば、お花は岡山県勝間田町(当時は勝間田の宿」と呼んでいた)の豆腐屋の娘で、隣の茶屋で茶汲みの手伝いをしていたのを原十兵衛の眼にとまり召抱えられたという。また同地の伝によるとお花事件にはもう一つの説が裏話的に残っている。それは家老の原十兵衛がお花を大変寵愛したので、お貴志の方は嫉妬に狂って、殿の不在中、お花を庭石に縛り付けて惨殺した。そして性器の部分を切り取り「なます」にして殿に食べさしたというのである。これが実話のようであるが徳守神社の宮司の話では、「お花事件の真想があまりにも卑猥で聞くに耐えぬ話なので前の説を事実のように伝えたのであろう」ということである。

(この頃当寺副住職調査)

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