1、所在地
三加茂町中庄1785番地
2、管理者
前田政勝
3、築城期
元暦元甲辰年(1184)ごろ
4、城主
篠原氏(築城・篠原太良三郎諸好)
5、位置と環境
JR江口駅から国道192号を西に行き、山口谷川に沿って山手に徒歩約15分で「お花はん」で有名な林下寺の参道に至る。JR徳島線のガードをくぐり参道を左に折れると、城谷(じょうたに)をはさんで正面に竹やぶに囲まれた小高い丘、山口城跡を見上げることができる。その丘の裾を山口谷川と道路が巡り、谷川に沿って登るとすぐ城跡(現在は畑)が展開する。
鉄道のガード下から、そのまま参道を200mほど上ると、林下寺の鐘楼に着く。もと林閑(寒)寺と呼ばれ、山口城の東側にあったものを江戸時代に寺名も変えて、現在地に再建したという。また、城の北東には、イザナギ、イザナミなど21神を祀る村社の五滝神社がある。
6、地形と遺構
東みよし町の代表的な中世城砦である山口城は、四国山地から吉野川に向かって北東に延びる舌状台地に築かれ、台地の北端からは中庄地区の平野と吉野川を一望のもとに見渡すことができる。海抜約113mで、東から北へ山口谷川が豊かな水量をみせて流れ西側は城谷川が山口谷川にそそぎ込み、唯一北方のみ開けた天然の要害となっている。東の山口谷川は6m以上の深さに開析され、西側は45度以上の急斜面である。山につづく南方は、三段に段差を設けてより平坦な地面に地ならしされ現在3軒の民家が建つが、わき水が豊かで現在も清冽な飲料水を利用しており、そのため、この域には初めから井戸掘削などの必要がなかったかもしれない。
当時の吉野川の水は、域の西側まで入り込んでいて、山口谷川の河口は入り江のようになり域はつき出た山すその突端にそびえていたようである。「前川泉」と呼ばれ、吉野川を上下する舟着き場といわれる跡も残っている。城兵たちは当然これらの船便を利用していたに違いない。また、山口城で監視していた祖谷山へ登る道(祖谷街道)の入り口なので「山口」という地名がつき、この道は祖谷への往来に頻繁に利用された。その南の域谷地区は、文字通り山口城を巡る谷の意で名づけられた集落である。
現在の城跡は、民家も建ち畑地として開墾されていて、築城当時に造られた施設(遺構)を示すものはほとんどないが、城の北西側にわずかに認められている。台地の北西端には、城主であった篠原氏の子孫が建立したとされる三基の石碑が並び、それぞれ「慰霊碑」、「山口城跡碑」、「城内の老桜樹碑」と花崗岩に刻んでいる(昭和31年)。その根元に、結晶片岩を乱雑に東西方向に積み上げた小さな塚らしいものがあり、長径110cm、短径90cm、高さ40cmで内部は不明である。山口城にまつわる何かを埋蔵したものか。
畑地として野菜などを作る平坦な台地の東西は406.6m、南北は約60mで南端の山ぎわには民家が並び、ほぼ楕円形をした面積は約2000平方メートルであるが正確な測量調査や発掘調査はまだ行なわれていない。
築城当時の原形を比較的よく残していると思われるのは、西側の斜面である。急斜面で城谷へ落ち込む西側は、現在の畑の造成のための石垣が約1m弱積まれ、その1.3m下部に高さ60cmの石垣が西から北へ約15m巡らされている。この山に多く散在する結晶片岩の自然石を、素朴で中世的な野面(のづら)積みにより(1個30~50cm)積み上げている。石の隙間はかなり多いものの、ほぼ原形を保っていると思われる。ただし、城の規模に比べて高さがそれほでないので、この上に何らかの防禦施設を造っていた可能性がある。この石垣は恐らく城全体をぐるりと取り巻いていたと思われる。さらに石垣の下方は、堀の跡らしい切り込みが見られるが、現在は道のように踏み固められて、かなり埋められ当時の面影はない。
7、由緒
山口城(塁)別名「中庄城」とも呼ばれている。この築城は遠く源平抗争の頃まで溯る。即ち、一の谷合戦(寿永3=1184)に敗れた平氏は屋島に陣地を移した。源義経は機を逃さず文治元年(1185)2月18日勝浦(小松島)に上陸し一気に屋島を攻めた。義経の攻勢に押された平氏は長門の「壇ノ浦」へ退いた。敗退の時、平国盛等平氏の一部は吉野川を遡って東祖谷に逃がれ、ついに、ここに住みついたと伝えられている。現在東祖谷山村の阿佐氏は平家の赤旗を守り続けた子孫だという。
一方、篠原太良三郎諸好に三百貫の土地を与え、さらに金丸荘山口に築城し平氏を見張らせた。諸好の死後も代々篠原家が後継してその任を果たした。築城年月は明らかでないが篠原家の系図並びに歴史的事象に照らして平氏滅亡の文治元年(1185)以降から建久元年(1190)の間でなかろうか。
城主篠原家の系図
篠原太良三郎諸好 承久二庚辰年(1220)没(法名 雲照院義応禅定門)
篠原小平太好隆=但馬守に任ぜられ承久の乱(1221)で活躍した。嘉禎三丁酉年(1237)没(法名 英了院夏雲禅定門)
篠原次郎諸勝=弾正少弼に任ぜられる。細川氏の伊予作戦に従軍した。貞治二癸卯年(1363)没(法名 光厳院自芳大居士)「中庄の板碑と同年で板碑には長賢の名がある。」
篠原大良兵衛玄番頭好清 勝端の屋形 細川頼之に属し勲功を顕し賞せられる。至徳三丙寅年(1386)没(法名 了厳院自照大居士)
以後 篠原三河守繁方(1381~1428)篠原大和守重孝(1532)等の名がある。
篠原三河守好長 長宗我部元親のため山口城にて戦死。山口城の落城(焼矢)天正十年壬午(1582)10月24日。生き残った一族は摂津へ逃れ子孫は大坂堺市に居住しているという。
8、山口城の攻防
次の文は『三好郡志』(大正12年刊)によるもの(原文のまま)「中庄塁址中庄村ノ東ノ方字山口ニアリ平地ヨリ高キコト四拾間ニシテ平坦ノ地 東西三拾間 南北二拾間 住民呼テ城ト言フ篠原三河守此二居ル天正年間 秦元親ノタメニ亡ホサル古老ハ言フ本村旧字新田ヨリ旧字高津田へ直径三町程ノ堤ヲ築キ山口渓ヲ堰留メテ要害トセシヲ以テ城攻ノ時元親頗ル困却遂ニ筏ヲ以テ兵ヲ渡シ旦城ニ隣セル 寺坊ノ住僧ニ命シ火ヲ東風ニ放チテ城ヲ焼キタリト」
※秦元親(長宗我部元親は秦の始皇帝の子孫と自ら称えた)
上の資料に伝聞を重ねて次に述べてみよう。
長宗我部元親の軍勢が三好郡に攻めて来たころ、山口城を守るは篠原三河守好長・好一の兄弟を城将とする地元兵百余騎。この城は小さいながらも山口谷川へ流れこむ東西二筋の谷に挟まれる丘陵にある。まさに天然の堀である。ここでくどいようだが、山口城の堀について付記しておきたい。
言うまでもなく堀には水濠と空堀がある。水を溜めているかどうかの違いで二通りに分けられる。水濠は敵を城に接近させぬためのもので、どちらかといえば防御的消極的なものといえようか。一方空堀は敵をここへ引き寄せて決定的な打撃を加えるもので消極的に対しては、積極的な防御力をもつものと言えよう。城はただ防御だけでは勝機はつかめない。
山口城の二つの谷は天候次第で、又策略によっては水濠となったり時には空堀ともなる等ニ面を備えた天然の堀である。さらに眼下に三野平野、中庄平野が広がり敵兵の動向を一望する好位置にある。なお、向背に黒長谷山があって守りを固め易い。
天正10年(1583)10月元親の軍勢千余騎いよいよ阿波上郡へ攻めてきた。他の諸城主は、この軍勢と権勢を見て、その威力に恐れをなし戦わずして逃れ、あるいは屈服し、その支配を受ける者が多かった。しかし篠原好長、好一の兄弟は、あくまでも妥協することなく負けることを覚悟の上で死を覚悟の上で敢然と戦いにいどんだ。まさに、戦国武将の気質を備えた武将らしい武将であった。
三河守好長は、土佐軍を防ぐため先ず新田から高津田(山路)へかけて約3丁(300m余)に堤防を築き水濠をつくって迎えうった。「なんのこれしきの小城何程のことやあらん」とあなどって攻めたてた土佐兵。しかし堅固な城と勇猛果敢に戦う地元兵「勇将の元に弱卒なし」二度、三度土佐兵は撃退された。僅か百余騎の地元兵を攻めあぐねたのである。
三日目を迎える頃から双方共々疲労の色が濃くなった。そこで土佐兵は一計を案じた。隣接の寺の住職を口説いて夜陰に乗じて密かに城内に忍ばせ、火をかけさせた。折からの東風でまたたく間に火の海となった。城兵も混乱「も早やこれまで」と裏山へ逃れたが既に土佐兵が持ち伏せていた。山道のあちらこちらで激しい戦闘が繰り返されているうち舎弟民部助好一は一方を撃破し間道を経て領外へ逃走した。
しかし城主篠原三河守好長は炎上する城中において、すさまじい最期を遂げた。時に天正10年(1583)10月24日だったと言う。片や城兵の一部はどうにか血路を開いて奥村(三加茂町)の峠にたどりついた。みれば僅かに6名、敵はさらに迫ってくる。残念無念、遂にこの峠を死地に全員が自害した。
いつの頃か、勇敢に闘った地元の兵士を悼んで6体の地蔵尊が安置された。「六地蔵峠」地名の由来でもある。不思議なことに、ある時期一体の地蔵尊の姿が消えたが今は元の6体にもどっている。傍に「天正年間黒島家先祖戦死の地」の石碑が立っている。黒島家は城主三河好長の家臣で、その後子孫は北海道に移住したと言う。なお六地蔵峠の近くに「いくさ場」という所がある。一面の草地だ。この物語とつながりのある地名なのかどうか今は分からない。
資料
林下寺 東西三拾間南北拾三間三尺面積四百六坪本村中央子山陰ニアリ真言宗古義派西京仁和寺ノ末開基創立詳ナラス古老傳云フ旧林加寺七堂伽藍タリ天正中秦元親ノ兵燹ニ羅リ今ノ地ニ移轉再興ス
『阿波国三好郡村誌』
(三好郡の城址より)