平安朝時代の末頃になると、政治が乱れて物騒な世となり、栄枯盛衰は常なく、人々は不安を抱くようになって、いわゆる末法思想(釈迦の死後1500年たつと世の中がみだれて末法の世となるという思想で、今の世は不安に満ちたその末世であるという厭世観)が一般に広く信ぜられるようになった。その為、生きている現世に功徳を積み、来世に希望をかけ、瓦に経文を容れた筒(経筒)を地中に埋めて後世の安楽を祈ったのである。
板野郡板野町犬伏蔵佐谷の旧釈迦堂跡から発掘された瓦経は天仁2年(1109)7月5日の銘があり、縦17文字、8行宛の経文で、主に法華経が刻まれてあるが無量寿経、観普賢経もかかれてあり、総計314枚を埋蔵したと計測されている。(浪花勇次郎氏の研究による)
三加茂町には加茂西原に経塚があったが現存していない。埋蔵品は不明である。西庄丹田経塚は古墳の上に築造していたが盗掘にあって埋蔵品は全く不明である。毛田十輪寺の経塚は現存しており墳上に板碑が3基あったが現在は1基残っている。土地の住民は十輪寺の宝を埋めた処という。西庄虚空地蔵庵の一字一石経塚は昭和44年6月辺見武春氏が墓よせの折、発見したもので、先祖より宝が埋っているとの言伝えの所であった。
この辺見氏の逸見豊後入道は金丸・西庄に居住した豪族であって荘園内の貢租を本所(東寺)に提出せず、独立を企てている一例である。現在の辺見氏はその血統であると思う。(「阿波国微古雑沙」所権「阿波仮銭文書」「故城記」)文正元年(1466)6月11日知行所の段銭(一段毎に何程か出す税)について強硬に催促をうけている。(東寺文書)
経塚を造成することは、平安朝の末期に「仏教は間もなく滅亡してしまうであろう」という末法思想なるものが流行し、仏法の滅亡を憂えた人々は、仏法再興のため56億7千万年後に出現するという弥勤菩薩の世まで経文を残そうと図り、ここに経塚の経営がはじまった。この風はその後も鎌倉から室町時代頃まで行なわれたが、後には、以上のような造成趣旨が失われて、自他の利益冥福を祈る供養的なものへと変形している。西庄虚空地蔵庵の一石一字経はその例である。中庄と毛田の境に経ノ尾の丸がある。経塚に関係あらんか。
(三加茂町史より)