厨子の中に安置されている2基の1で、緑泥片岩の薄い板石より成り、総高66.2cmほぼ完全で先端を山形に切り、その高さ6cm、幅は肩で20.3cm、身部の下端が最大で20.8cm、厚さは不整で右側4cm、左側2cmである。
肩以下2.6cmをおき、1.2cmの間に2線を刻んで額部とし、以下の身部には、下の線より2cmをおき輪郭を線刻している。輪郭は通有のコ字状で下端をめぐらさず、左右の側線を不整でその高さは右29.2cm・左28.3cm幅は上端15cm、下端14.6cmである。
輪郭の内には上方に弥陀三尊の種子を配し、その下に宝瓶五茎蓮を線刻している。
以下は根部で不整形な尖り気味に造られ、もとこの部分を地中に埋めて建てたことを示している。つまり、どこかに建てられたものをのちに厨子へ安置したものであり、旧位置は明らかでないが、おそらく庵の敷地内であろう。
銘文がないので造立年代の推定はその構造手法によるほかない。まず構造について見ると、その規模が小さいということは、土地の歴史地理的な経済的基盤を反映していると見るべきほかに、板碑の規模そのものが年代が下がるとともに小形化する傾向がきわめて顕著傾向を示すという形式観にもとづくとき、年代がはるかに下り室町時代に入るものと見るのが一応穏当であろう。
ところが、改めてその手法、つまり種子の手法をみると字刻はやや小ぶりながらも、なお刷毛書の端整な筆致を示し、細く浅いとはいえ、薬研彫(やげんぼり)の彫法が認められ、室町時代の阿波板碑の様式ともちがい、よく南北朝時代の風格をとどめているといえよう。
このようにみてくると、この板碑の小型であるのは、比較的に早いものとして、種子の手法と考え合わせ、南北朝末期の造立と推定してほぼ誤りでないであろう。
次に宝瓶五茎蓮を見よう。宝の蓮は全形を現わし、五蓮茎は、中央に蕾をつけた茎が直立し、左右の各二茎がほぼ並んで立ち上がっているが、先端に葉をつけているかどうかも明らかではないほど簡略化している。
宝瓶も同形をあらわしている。というだけで整った形でない。いまこの宝瓶について思い出されるのは、阿波板碑と京都西向寺の明徳2年(1391)在銘線刻地蔵板碑の3巻作りの宝瓶で、その形式が似ていることであろう。
かくて、この板碑が南北朝末期、おそらく1390年頃の造立であろうと推定することが、いちおう妥当であることが知られるのである。
この年代の板碑は、阿波においては決して珍しくなく、取り立てていうに値するものでない。しかし所刻の五茎蓮も石造美術の装飾文としてきわめて注目に値し、近年この種文様について調査研究しているわたくしにとって、当面、貴重な資料になるものである。(中略)近江で発祥し、しかも例の少ない装飾文を阿波の僻地の山間で見出したのであるから、これは意外の大成果といえよう。
この板碑は規模が小さいが、石質がよいので、その手法と相俟ち、名西郡石井の石大工の作品と推定してよく、例のまれな貴重な資料として保存管理の適切なことを期待して止まない。
(三加茂町史より)