縄文時代は森林帯の上の疎林や草原の地に生活の場を求め、技術的にも堅牢な住屋を建てることができなかったから、近在に利用し得る洞穴や岩陰があれば、これを本拠とし、季節によって、また生活物資獲得のために転々と遠出したものと考えられる。又狩猟をはじめとする食料採取や石材その他の生活物資の採取のために、尾根を伝い、川筋をさかのぼって奥地に入った際に仮泊する程度の岩陰利用もあったとみられる。
新田神社の岩陰は加茂谷川の中流標高280mの深山中に孤立する遺跡だということができる。
右岩陰は昭和44年(1969)9月13日偶然発見したもので縄文土器の破片及び石器(石匙、凹石)等発見され炉跡などあり、住居跡と確認され、昭和45年2月26日県仮指定となる。
この遺跡は縄文後期以後歴史時代に至るまで、同一の岩陰が利用されているが、利用の意義が必ずしも一様でないという印象を受けるのである。岩陰遺跡の一つの特徴とも考えられ、爾後の同種の遺跡の調査に重要な示唆を与えたのである。
東みよし町の文化財 加茂谷川岩陰遺跡群(1号2号)
地図
この情報は役に立ちましたか?
お寄せいただいた評価は運営の参考といたします。