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東みよし町の文化財 地神塔

地神碑の写真

寛政年間(1790~)に各村で地神碑を建てたが、加茂では全域で一ヶ所だけ、中村南の山腹に石でなく木柱の地神碑を建て祠った。
この地神様に奉納するのと共に、村人たちの慰安のために、百ニ、三十年昔から春の社日に、各名が輪番に世話して地神芝居を続けてきた。八十年ほど前、やめたら作物が採れなくなるとの老人たちがいうのに、何かの都合で一年だけ休んだ。ところが、その年、疫病が大流行し、たくさんの死人が出たという。
明治の末年まで、村々の豪家では太夫を抱え、二ヶ月ぐらいその家へ同行の者たちが集まって稽古したもので、そうした所謂太夫たちが、浄瑠璃を語り、人形は七十年ほど前から、ずっと昼間の阿波源之丞昼間座、池田の峠座が来演している。
明治末から三味線は大西熊助・楠のお京・三木おりよ等が著名だった。
昭和15年に川原武夫を会長に、浄瑠璃同好の倶楽磨会ができた。春の社日の前に毎晩集まって練習した。18年から30年にかけては、豊沢団次(西中村 数年前没)、豊沢団友(西中村 現小松島住み)の名師匠が本町に在住していたので、浄瑠璃熱が高まり、365日休まず稽古を積んだ。めいめい紋付・袴・見台。みすを備え、地神芝居に出演するだけでなく、戦後の昭和24・5年(1950)には、ニ・三人宛雇われ源之丞座のプロの太夫たちに伍して、愛媛や香川に巡業したのだった。
35年(1960)頃からは、毎月一回順番で会員の家もまわって集まって語っている。会員は川原武夫・大久保浅一・井上嘉平・田岡林市・新田周一・北川文太郎・大西与平・谷助一・大西森一・槙山五平・近藤政市・三木伊勢雄・宗広房吉・三木重雄・金丸彦平・三月田鹿義らである。
地神芝居の経費は、加茂村になってからは、池の修繕費・地神祭の経費と一緒に協議会から出ていた。加茂町になっては人形芝居は町が出し、雑費は太夫連中が負担した。合併後一時途絶えていたが、町から人形芝居に8万円、諸経費5万円補助されている。
昔は、中村南の地神さんの定舞台で、桜の花のころ、座員15人から20人の人形座が来演、近郷から2~300人の見物客がつめかけ、夕方から夜明けまで盛大に催された。戦後は加茂小の講堂で二日間、夕方から夜半まで行っていたが、現在では町公民館で一日だけ、正午から夕方6~7時まで開催している。

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