トップ観光・文化・スポーツ文化財東みよし町の文化財 中庄東遺跡

東みよし町の文化財 中庄東遺跡

集落跡

説明1

2004~2005年に長手地区、2006年に大坪地区の発掘調査が行われた。長手地区は飛鳥時代・奈良時代を主とする遺跡で、7世紀から8世紀頃の集落が見つかり、集落跡から銅製カ帯、陶硯など特殊な遺物が出土した。大坪地区は弥生時代~中世にかけての遺跡で、土壙墓、溝、土杭などが検出された。

説明2

吉野川の堤防工事と県道出口太刀野線(角の浦大橋)の建設に伴い、県埋蔵文化財センターによって、平成10年から6年間にわたり約6万m²が発掘調査された。遺跡は、末石遺跡の500m東、標高65mの河岸段丘、自然堤防上に古代~近世にかけて長期間営まれていた集落跡である。
調査年度の前半の3年間には、飛鳥時代の竪穴住居跡4棟、平安時代の掘立柱建物跡10棟、土こう墓400墓、基盤目伏に区画した条里制の溝などが出土、特色のある遺物としては仏教関係のもの、官衛、銭貨(和同開珎)など県内で初めて明らかになったものが多い。竪穴住居は、末石遺跡と同時期の7世紀のもので1辺3~5mの方形、深さ30cm、北にカマドを持っている。幅2m、深さ20~160cmで東西と南北に直交する溝は、条里の溝と考えられ出土した土器から9世紀に造られたらしく、間隔は1町(109m)ずつ測っている。そのなかの水田跡も9世紀のもので、鋤で耕作した痕跡が残る。この条里溝は大体現在の地割りとも重なっているので、この地区の条里制は9世紀ごろに始まったと考えられる。たま幅5mの溝で囲まれた1辺120mの方形の屋敷跡には、14世紀の土器が多く出土、金丸庄の荘官の館であったらしい。
遺物は、県道、出口太刀野線建設地から礫石経が出土した。長さ23cm、幅14cm、厚さ3cmの平らな円礫に、法華経の一部の経文を写し墨書している。直径5mの円形とL字状を作る集石遺構の円形部分(16世紀)から出ており、中世末ごろのこの集落の人々が供養、祈祷の際使用したらしい。おぼこ塚、御鉾三神社跡の堤防予定地からは、12世紀の鏡像が出土した。直径12.9cmの青銅製で鏡面に蓮華上の釈迦如来がノミによる蹴彫りの技法で描かれ、鏡背に「あみたほとけ」、「五」の文字と鳥や蝶も薄く残る。暑さ1mm、重さ42.7gの宋鏡式鏡を利用しており、13世紀初めごろに廃棄されたらしい。その他、県内初の和同開珎1枚、丸鞆(帯金具)、花卉双蝶八花鏡なども出土しており、官衛跡かといわれている。
調査の後半年度は、区域がさらに東へ延び東側の屋敷地と鋳造、鍛冶関係の遺構、遺物が大量に出土している。溝と石積みで区画した東西36mの屋敷地は、中に大規模の建物もあり金丸中庄の中心地にあることから、中庄の管理有力者の15世紀頃の屋敷跡であろう。溶解炉、鋤、鍋、鰐口などの鋳型や鉄のスラグ(とけたカス)、フイゴの羽口が大量に捨てられており、農具や調理の用具を数世代にわたって職人が定住して生産、供給した。鋳造や鍛冶を営むためには、いうまでもなく多くの鉄材料や木炭を必要とするが、これらの原料の搬入や製品の輸送には、すぐそばの吉野川の舟便を利用していたことが考えられる。そして、大きな邸宅に住む有力者がこれを管理運営していたようである。
堺や博多などの都市に住んで鋳物師や鍛冶屋の活動の記録は残っているが、四国の片田舎でひとつの集落のなかに定住していた鋳物師たちと、広い屋敷を構えていた有力者が同時に存在した例は、四国で初めての発見となった。
しかし、17世紀以降、中庄東の集落は吉野川の洪水被害を何度も受けて、人々は南の小高い山ぎわへ移動を余儀なくされていった。

(三加茂町史(続)より)

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