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東みよし町の文化財 姫塚

姫塚の写真

説明1

平氏の嫡流、祖谷阿佐家の春姫が、恋人を追って同じ平氏の後裔である槙山家へ身を寄せていたが、追っ手を逃れて高キビの切株で足を怪我し亡くなってしまう。槙山家では春姫を哀れみ、塚を築いて春姫の祭祀を続けている。

説明2

加茂・貞広部落は、平貞能を祖先にもつ槙山肥後守の後えい槙山家一統70戸が大部分を占めている。その総本家の屋敷内の東北隅に小さな祠がある。そこに高さ30cm余、囲い45cm位の、人像に似た白い自然石が安置されている。これを姫塚と呼び、寿永の戦いに敗れた、平家の落人阿佐姫を祀ってあるといわれている。
詳しいいきさつは不明だが、この阿佐姫は人目を忍ぶ恋に破れ、不義はご法度と追われる身となった。姫は剣山のふもと祖谷から、脱け出し、逃れ逃れて、やっと貞広まで落ちのびた。ほっと一息する間もなく、またも追手。
逃げ場を失った姫は、折から収穫を終え、うず高く積みあげられた、高黍がらの中にもぐり込んで、あやうく助かった。しかし、高黍の切株で足をいため、民家にかくまわれているうちに破傷風をおこした。高熱にうなされ、恋しい男の名を呼びつつ、苦もんのうちに薄命の一生を終えたのだった。
里人たちは、悲恋の美女阿佐姫を姫塚として祀った。毎年正月元旦には槙山一統は、祠の前に集って、盛大な祭りを続け、今も黍は栽培しないということだ。
この姫塚は、恋の仲立ち、縁結びの神とはならず、とても荒っぽい神で、祠の上ののうぜんかずらの花でも取ろうものなら、たちどころに腰が痛くなる。あがめまつらぬ時は、大たたりにたたるということで、里人たちに恐れられているということだ。
いまから100年ほど前大火があり、貞広部落は全滅にひとしく、僅か4、5軒しか残らなかったという。この時、槙山家所蔵の古文書は、ことごとく灰になってしまったそうだ。

(三加茂町史より)

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