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神璽奉還と上月文書

吉野朝時代の終に、持明院、大覚寺の両皇統は、両統迭立を条件として和睦せられ、神璽は吉野から京都に奉還され、持明院統がその後相続いて即位せられたので、大覚寺統及びその関係者は、和睦の条件に違うのを憤って機会の至るを持っていた。大和、紀伊の境なる玉河に居られた大覚寺統の尊秀王は、その党と嘉吉の変に乗じ禁裏を襲って、宝剣、神璽を奪還したが、宝剣は足利側に奪い返されたが、神璽その党に擁せられて、吉野の奥北山に奉還せられた。そして尊秀王のニ子が擁立せられ、之を守護し、楠木氏の一族等も之に応じて起こったことは、嘉吉禁闕の変として有名な事実である。
その後朝廷では、神璽の復帰を切に望んで居られたが実現出来なかった。然るに播磨赤松家の遺臣は、相図って内大臣三条実量に就き、主家の再興を約し、難を胃して吉野の奥に入り、ニ王を殺して神璽を奪い、30年にして漸く禁裏に奉還するに至った。此時に最も功労のあった上月左近将監満吉の神霊奉還に関する自筆の記録が「南方御退治条々記録」として三好郡東みよし町中庄井口広一氏に伝えられている。
※原本は徳島県文書館に展示されている。

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