トップ観光・文化・スポーツ文化財東みよし町の文化財 菅生文書(十三通)

東みよし町の文化財 菅生文書(十三通)

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阿波の山嶽武士は、結束を固め、引続いて細川氏を敵として、吉野朝廷の為に奮斗した。その中心となった人物は、粟野三位中将某であって、之を補佐したのが阿波守為仲(姓氏名不詳)とであった。それは、阿波、土佐に於ける吉野朝関係のものが多く三位中将の袖判があって、為仲や時仲や時有の奉書となって居ることによって知られる。三位中将の袖判のあるものは、重野博士採訪の管(菅)生文書にある正平五年七月二十二日の時有奉書を初めとして、その他に阿波では小野寺文書、徳善文書、松家氏所蔵の木屋平文書、三木文書であり、又、土佐の安芸文書、行宗文書にもある。然るに三位中将の名は三木文書にある正平二十二年卯月十四日以後には見えないのであるから、正平五年から約十七年間の活躍であったことがわかる。これ等により山嶽武士活動の中心は、三位中将を奉じた為仲や時有であることが認められ、これ等の策動が能く山嶽武士を指導したことが知られる。
さて、山嶽武士の中で、祖谷にある徳善、喜多、小野寺、菅生、西山及び阿佐等八氏は、古くから名望が高く、それ等八氏の主なるものに就いての伝説を作る根拠となるものとしては、阿佐氏所蔵の平家の赤旗と三加茂町加茂内田和夫氏所蔵の菅生家所伝の白旗及び阿佐家に伝うる平氏系図等を挙げることが出来る。
菅生氏は東祖谷名の菅生名の領主として、南朝五十七年の中、四十六年間持続して忠節を曲げなかったが、遂に力尽きて康暦三年、細川氏に降り、山嶽武士は滅亡した。菅生文書は正平五年七月二十二日の軍忠状をはじめとして、正平二十二年十二月二十七日付に至る南朝方のものと、康暦三年正月十四日付を初めとする北朝のものを併せて包含している。
この文書は元来東祖谷の菅生氏に伝えていたが事情があって現在は本町内田和夫氏が所蔵せられ、全部で十四通あるが、その中、直接本町の地名が出ているのは三通である。

(三加茂町史より)

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