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美濃田の淵 幻の美濃田橋

美濃田の淵の岩に橋脚の跡を残す「夢の橋」のお話

昭和26年ごろ森金次郎が発起人となり、架橋運動を始めた。
当時は吉野川の南岸と北岸の交通は渡し船に頼るのみで、非常に不便であり、この橋の架橋に賛同するものも多く、実現が望まれていた。

森金次郎は関係町村に呼びかけ、東奔西走努力を続けていた。
足代村の議会では、昭和28年(1953)1月14日の全員協議会において初めてこの問題が取り上げられ、「隣接町村と密接な連絡をとり協力して架橋すること」に決定するとともに連絡会などの費用は村費を支出することが決められている。

昭和28年秋に下名境谷の都築建設に橋脚工事を発注し着工した。
その後、村議会に要望書を提出、これについて村議会の全員協議会が昭和29年1月14日開催され、森金次郎が出席し、起工式後北の橋脚が2分の1くらいできていると説明している。
その後、1月15日の全員協議会において、工事が7~8割見通しがつけば村として30万円の補助をすることが決定されている。

森金次郎が病気のため倒れ、工事委員長に野村義寛が就任したが、間もなく森田宣光に替わり、3月1日の議会全員協議会には森田宣光が出席し説明している。
しだいに工事も進捗し、北岸橋脚が完成し、中央の橋脚が岩の上に姿をあらわした時は、完成時の雄姿を想像し、胸を躍らせたのである。

しかし、寄付金も思うように集まらず、村からの寄付金の支出も早急には望めず、工事半ばにして中止のやむなきに至ったのであった。

160万円余を投じたといわれているが、残ったのは北岸と中央の橋脚と負債であった。 現在は北岸と中央の橋台は展望台を兼ねたバーゴラの台となり、中央の橋脚には照明灯がつけられている。

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